エウテイコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひ
どく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起してみると、もう死んでいた。
パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きてい
る。」・・・人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
(使徒言行録20:1〜12のうち、9~10、12)
パウロたちがトロアスで七日間滞在したあとの週の初めの日(日曜日)の礼拝中に起こった出来事です。パウロが長い
説教を終えたあと、聖餐式を行なっていた時、一人の青年が居眠りをして、窓から転落して、死んでしまったのですが、パ
ウロが抱きかかえると生き返ったという出来事が記されています。
このような青年エウテイコを、「説教中に居眠りするなんて、緊張が足りない」と言って、非難することは出来ませんし、
逆に、「誰でも疲れたら居眠りが出るのは当たり前だ」と言って、説教を普通の講演会か何かと同じように考えるのは、如何
なものかと思います。しかし、私たちは、色々な事情で、礼拝から脱落することがあります。しかし、それは正に命を落と
すことであることを象徴的に物語っています。
ところが、パウロがエウテイコの上にかがみ込み、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」と言うと、青年は生き返った
というのです。
窓から転落して礼拝から落伍したエウテイコの姿は私たちの姿を象徴しているかもしれません。私たちは時々、自分の調子
やこの世の都合で礼拝から脱落したり、礼拝に来ていても、私たちの心が塞がって、御言葉が魂に届かないことがあります。
しかし、パウロが死んでいたエウテイコの上にかがみ込んで、抱き抱えて、生き返らせたように、主イエスの御言葉から脱
落している私たちのところに、主が聖霊において降りて来てくださって、私たちの上にかがみ込んで、抱き抱えるようにして、
「まだ生きている」とおっしゃってくださるのであります。そして、もう一度眠りから目覚めさせ、新しい命に生き返らせて
くださるのです。
礼拝は、御言葉から脱落した者が、もう一度、御言葉によって生き返る出来事が起こる場です。眠りこけた魂が目覚めさせ
られて、新しい命に生き返る所です。11節を見ると、そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続
けてから出発した、とあります。エウテイコが生き返ると、また礼拝が続けられました。礼拝の中で、エウテイコの復活が起
こったのです。礼拝はこのように、御言葉の説教と聖餐が行われ、命の甦りが起こる場なのであります。
(12月7日の礼拝説教より)